死の問題

精神医療において重要なのは「死」の問題です。

 精神医療において重要なのは「死」の問題です。
日常一般に死について語られることが少ないのと同じく、精神医療の現場でもこの問題が語られることはないに等しいのです。
死の問題は触れることがタブーになっているようでありますが、死の問題が持っている人間的な意味は、いうまでもなく大きなものがあります。
一例をあげれば、‘見捨てられる恐怖’は幼い子にとっては死の恐怖です。それは母親との関係で増大もすれば抑圧もされます。この恐怖は一般的な対人関係で礼節をわきまえる基にもなれば、‘よい子’となって抑圧的な自己になる理由でもあります。それは生涯にわたって、良かれあしかれ本人の対人関係に影響を与える基になるでしょう。
この負性の感情を踏まえて乗り越えることができた人は、大きく成長するでしょう。しかしより多くは、多かれ少なかれ対人関係で委縮した精神の持ち主になるのは避けられません。
生は死によって限界づけられた有限の世界です。そのために人はいずれ死を向かえる宿命の下にあるので、「死は絶望である」というのが素朴な感情であるのでしょう。
しかし、そうであれば生きている意味はどこにも見出せないことにもなります。
現実に大多数の人は死を恐れながらも絶望しつつ生きているわけではありません。死という絶対の限界がありながら、我々はどこに希望を見出しているのでしょうか。それは単なるごまかしを意味しているわけでもないでしょう。
死は逍遥として受け入れる以外にはないものですが、更にいえばそこにこそ生きる希望の源泉があるに違いないのです。
死は生きる希望の根拠であると私は考えています。
そう考える理由は、希望が成立する要件は無限性の保証である、というところにあります。
人は死によって限界づけられた有限の生を生きています。
そして、その有限性の性格のモノは生きる希望の源泉ではありません。あり得ません。
そうしてみると、絶望をもたらす源泉のようにも見える死にこそ無限性を見出すことができるのです。
つまり、死は生に終焉をもたらすものではあっても、無限性を保証する唯一のモノであるに違いません。
死は生を無化する力を持っています。そして無と無限性とは自我に拠る人間の理解を能力的に超えているので、いずれにせよ、死は「理解の外」にあります。
以上のことを踏まえると、人間存在は「社会的存在」という有限の存在仕方と、その彼方をも踏まえた「存在の仕方といったものの総合」としてあるというべきでしょう。
人間が死ぬのは社会的存在である限りにおいてです。そこにとどまり、それが人間存在の全体であれば、そこには生きることの希望はあり得ないのです。
別な角度でいえば、死が持っている意味は、自我に拠る人間の理解を超えた世界の開示であると捉えることも可能です。
そのように捉えることで、死が生の無化をではなく生に可能性を担保している意味が開けてきます。
精神医療は閉ざされかけている心を開いていくこと、絶望の暗闇から自由の光へと開放する営みでもあります。
その絶望、恐怖、怒りなどの根源にあるのが死であるが、生があるためには死を必要としているということでもあります。
つまり生きることへの絶望が死に由来するとして、その絶望している生に希望を与えるのも死であることにもなります。
そうした矛盾を構造的に持っているのが人間存在であるともいえるでしょう。
長くなるので、いまは死は無限であるということにとどめておきます。

 その世界、社会的存在であることを超えた生き方を身をもって示しているのが、例えばアルピニストです。彼らは社会的存在としての自己を超えて、自己自身との関係を身をもって生きている稀有な人たちであるように見えます。
その自己自身というのは、いわゆる元型としての自己であり、無意識界にあって直接的には意識化できない「自己の基盤」です。(その世界はそこに自我が呑み込まれると、無意識になる、つまり死ぬということでもあるので、死と無意識とは密接した関係にあります)
 彼らは社会的存在である意味を超えて、「死を生きる」という存在の仕方をしているように見えます。
「死を生きる」ということ別のいい方をすれば、例えば「自己が自己自身であろうとする」ということが可能です。
その「自己自身」というのは、無意識という無限界に備えられている、自己が向かうべき理念的自己です。
それを備えたのは、いうまでもなく人間の能力によってではありません。自我に拠る人間が現実的な自己である一方、そうした自己を超越した理念的自己が自己の存在を根拠づけているのです。
この自己自身を生きることの現実的なモデルがアルピニストであるように見えるのです。そして彼らが示唆しているのは「いま、このときを生きる」ということです。
心が不調に陥ると、不安、恐怖が濃霧のように心に広がりつづけることになります。そうすると「明日に向けて何かを心がけようとすると、たちまち不安につきあわされる」ことになるのです。その結果、かけがえがない「いま、このとき」を無為に過ごすことにもなるのです。それに伴って「生きる充足」が満たされず、不安と虚しさが増幅することになるでしょう。
そういう心の状況で唯一意味があるのは「いま、このときにできることをする」ということです。そのことをイメージ化すると、アルピニストが足元を見つめて一歩一歩む姿です。

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